浪花八百八橋-戎橋-

こんにちは!
町長のちびってぃーの町長TV!
本日も更新していきたいと思います。

さて、本日は「浪花八百八橋」と題してまして、
大阪の「橋」にまつわる歴史などなどをご紹介していきたいと思います。

「浪花八百八橋」という言葉、お聞きになったことはありますか?
その昔、「江戸の八百八町」「京の八百八寺」「浪花の八百八橋」と言われていました。
実際には、大阪に橋は200程しかないのですが、
800を超えるくらいの勢いで、橋が作られていたということだそうです。
しかも、大阪の橋のほとんどが町人たち自らの手で、資金で作られたそうです。
生活や商売のために、自分たちの町は自分たちで住みやすくしようという
大阪の人たちの心意気が見て取れますね!!

さて、その中でも本日は
名店街にも出店しているお店がある、「戎橋」についてお話しましょう!!
もちろん、戎橋もその町の人々が作り上げた橋の一つです。

戎橋は道頓堀川の開削とほぼ同じ時期につくられました。
ですので、400年も前のことになります。
戎橋の名前の由来は、今宮戎への参道であったことや西宮戎の神像があったことなど
諸説ありますが、いづれにせよ、商売繁盛を願う戎様に所以していると思えます。
また戎橋の周辺には、芝居小屋がたくさんあったことから「操橋(あやつりばし)」と呼ばれていたこともあるそうです。

木で作られた橋は、明治11年に鉄橋に架け替えられました。
欄干にはX状に組んだ鉄剤が用いられ、近代的な様相を呈していました。
大正14年には耐震化のため石とコンクリートの橋に改修されました。
アーチ型のデザイン、花崗岩による装飾は大阪文化の象徴となりました。

戦争を経験しても、戎橋は石・コンクリート製だったため、焼失を免れました。
平成19年、現在の形の戎橋となります。
戎橋の特徴であるグリコネオン前の広場はこの時に設けられました。
これは街と街、人と人がつなぎ、橋渡しをするとともに、末永く集いの場として親しまれるという
願いが込められているそうです。

さて、戎橋周辺といえば、大阪の文化の中心と言えますが、
そんな中にある戎橋筋商店街は戎橋とともに徐々に繁栄してきました。
江戸時代は相撲小屋や芝居小屋などの見世物小屋が、
明治時代には大阪でも有名な料亭が、商店街を彩りました。

大正時代、大阪は世界6位の人口を誇る大都市になり、
戎橋商店街も、たくさんの人々が行き交い、昼間は学生、主婦の楽しみの場
夜はサラリーマンの憩いの場としての役目を果たしてきました。
また、文化の発祥の地として栄えていた戎橋商店街を中心とするミナミは
流行に敏感なモボ(モダン・ボーイ)、モガ(モダン・ガール)が集まる、近代的な街となりました。

戦時中には、ファッションやネオンの規制、食料配給制度などにより
自由な商業活動が行えなくなり、大阪の街も活気が失われてしまいました。
しかし、戦後2年もしないうちに、ミナミの町の人々は立ち上がり、自分たちの町を築き直し始めました。

昭和37年には戎橋商店街のアーケードができ、
高度経済成長期を突き進む、力強い戎橋商店街が歩みだしました。

現在では100店舗以上のお店が軒を連ねる戎橋商店街。
大阪名物の名店がたくさんあります。
大阪の人々の手によって造られた戎橋。
文化の中心として今もなお、多くの人びとに愛されています。

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